5.木曜日
今日は江本に遭遇せずに一日が終わり、僕は帰宅の途についた。彼女に遭遇しないだけでもだいぶ精神面でいい影響が出そうだ。
気分は上々。よし、鬼のいぬ間にさっさと帰ろう。僕は足早に校舎を後にする。
生徒玄関を出て直進。帰宅している生徒はまだまばらだ。僕は前を歩く生徒たちを早足で追い抜き、校門を出て左に曲がる。このペースでいけばいつもより一本早い電車に乗れるだろう。なんか順調すぎて恐いくらいだ。
「萩野翔」
突然の背後から僕を呼ぶ声が聞こえ、僕の心臓はわずかに止まった。
なんかどこかであったようなシチエーションだ。しかし前回と声が違うし、なにより今回は僕の名前を間違えていない。
とりあえず僕は振り返った。僕よりも背が高く活発という印象の女子生徒。全体的にボーイッシュな印象を受けるが、女性っぽくないというわけではない。どちらかというと顔立ちが整っていて綺麗というタイプだ。……誰だこの人?
「ああ、やっぱりあんたが萩野翔か」
目の前の人に僕は見覚えがないにも関わらず、この目の前の人は僕が萩野翔であることに確信を持ったようだ。
「……誰です?」
よく見ればネクタイが深緑色なので上級生ということになる。僕は上級生に知り合いなどいない。最近僕はやたらと有名じゃないか?
「私?名乗るほどの者じゃないよ」
なんか馬鹿にされているようでむかつく。
「僕を呼び捨てにしておいて、自分は名乗らないんですか?」
「初対面のレディーに名前を訊くわけ?」
しばし考える。……普通は訊くよな?自分自身に確かめてから口を開いた。
「普通訊くでしょう」
「冗談だって、真に受けないでよ」
少しの間躊躇した僕をからかうように目の前の彼女は笑った。……なんかむかつく。
「私は国枝千里。早速本題だけど、あんたでしょ?最近茜に付きまとってるっていうのは」
聞き捨てならないな、この無関心が取り得の僕が人に付きまとうなんて噂。それにしても茜?茜って誰だ?……ああ、江本か。だとすると素晴らしいぐらいに間違っている。
「少々認識に間違いがあると思います。付きまとっているんじゅなくて、彼女に付き合わされているんです」
「本当に?」
疑いの視線を僕に向けてくる。全然遠慮と言うものがない。
「なんで嘘言わなきゃいけないんです」
「なんかあんた嘘つきそうだし」
……何気にショックだ。僕はそんな風に見えるのか?見えちゃうのか?
僕の心情など露知らず国枝千里は僕を疑わしげに見てくる。それで僕は再度弁明する。
「……本当ですってば」
「ふうん、で?」
彼女は僕に話の先を催促するが僕が何かを説明しなくてはいけない流れだったか?
「で?ってなんのことです」
「だからあの子に何を付き合わされてるって?」
なんだそんな事か。僕は答えようとして答えに困る。猫殺しを調べているというのは少々ためらわれた。ちょっと物騒な感じだし、この人にそこまで言うのも得策ではない気がしたのだ。そこで少し言葉を濁すことにする。
「え、あー猫、関係です」
「猫関係?」
再度訝しげに僕を見る。そんなに僕は胡散臭い人間なのだろうか。
「……細かい事は江本さんから聞けばいいじゃないですか」
「まあそれもそうかな」
あっさりと彼女は引き下がった。少し食い下がるかと思ったが、少々拍子抜けだ。
まあいい。兎に角僕は反撃に打って出る。
「ところで国枝さん、あなたは江本さんの何ですか?」
「なに、気になる?」
意地悪い笑みを浮かべ、国枝さんは僕を見る。なぜここで僕が不利になるんだ?
「……まあ、それなりには」
国枝さんはもったいぶるように僕を見る。……毎度ながらなんかむかつく。
「私?そうねぇー近所のお姉さんってところかな」
つまりこういうことか?親切心から古い馴染みの江本の周りにうろついてる虫を調べに来たってことか?だとしたらご苦労様な事だ。それにしてもひとつしか歳が違わないのにお姉さん気取りはどうかと思うぞ。
「じゃあ訊くけど、あんたはあの子のなんなのさ」
僕にも訊くのかよ。
「別に、なんでもないと思いますけどね……」
「大して面白みのない答えだね」
応対に面白みを求めるというのか?無茶苦茶な人だ。
「あんた、あの子のことどう思ってる?」
普通は訊きにくい事をずばずばと訊く人だ。どう答えたらいいのか分からず、僕は言葉に迷う。江本と親しい人に話して墓穴を掘りたくはない。
僕が何も言わないのを見て国枝さんはつまらなそうな顔をする。
「あの子はね、優しいし賢いけどあんな性格だから親しい友達ってあまりいないのよね」
僕は頷きこそしないが、それには納得だ。あんな性格というのはおそらく負けず嫌いとかプライドが高いとか高圧的とかいう単語が入るのだろう。
「もしかしたらあの子、やっと見つけたのかもね」
「なにがです?」
「いいや、こっちの話。じゃああの子をくれぐれもよろしく頼むよ」
そう言って国枝さんは後ろ手で手を振りながら行ってしまった。
別に頼まれたくない。っていうか子供じゃないんだから自分の世話ぐらい自分でしてくれ。
しかし訳の分からない人だ。それと同時に凄く苦手なタイプの人だ。
突然の闖入者に疲れながらも僕は無事に駅まで着き、丁度駅に入ってきた電車に乗り込んだ。乗り込んでから結局いつもと同じ時間の電車であることに気付く。なんだか損した気がするのは気のせいだろうか?
時間が中途半端なので乗客はまばらだ。僕は空いてる席を見つけて腰掛け、ペーパーバックを開いた。電車で席に座れるなんて幸せなことだ。
電車が動き出して間もなく、別の車両から歩いてきた人影が僕の正面の席に座った。何の気なしに顔を上げると一人の人物と目が合った。制服をきちんと着て、綺麗な黒髪を肩で切りそろえ、学校側が提示するお手本のような身なりの女子高生。彼女を見た人は十人中十人が優等生タイプと言うであろう。
「あら奇遇ね、こんなところで君に出会うなんて」
江本は優等生ぶった口調で僕に告げた。あからさまにわざとらしい。
かなりびっくりだ。心臓が止まるかと思った。いや、マジで。
「その言葉はわざとらしい嫌味と捉えても差し支えないかい?」
「君がそう捉えるのならそうじゃなくて?」
「……左様ですか」
今日の江本はいつもに増して優等生っぽい。そこで僕はあることに気付いた。
「……眼鏡をかけてるのか?」
「今更気付いたわけ?」
彼女は少々呆れ気味に言い、普段はかけていない赤い縁のセル眼鏡に手を触れた。
「いつもはコンタクトなんだけど」
「じゃあなんで今日は眼鏡なんだ?」
「人が話してるときは喋らないでくれる?」
江本が眼鏡越しに睨みつけてくる。相変わらず覇気がある。
「……すみません」
「まあいいわ、昨日ちょっと夜更かししたのよ。だから今日はちょっと目が乾いてて、コンタクトをすると痛いのよ」
「へえ大変だな」
幸いな事に僕は目がさほど悪くは無いので眼鏡の世話になってはいないが、もし僕が眼鏡をかけることになったらおたくっぽいと愛海に言われる事だろう。それは嫌だ。
だが憎らしい事に目の前に座る江本は眼鏡が似合っている。インテリというか知的というか……どっちも同じ意味か。
「でも眼鏡が似合ってるからいいじゃないか」
僕の言葉を受けて江本は少し眉をひそめた。
「……メガネっ娘好き?」
「君が僕をそういう人間だと思っているのはよく分かった」
「冗談よ」
江本が言うと冗談が冗談に聞こえない。
「……ところでさっき君の近所のお姉さんとやらに会った」
「近所のお姉さん?……まさか、国枝って言う人?」
江本の顔が少し青ざめる。なんだ?その表情の変化は。
「ああ、そう名乗ってた」
「……ちーちゃん、何を」
江本の握り締める拳が細かく震えている。これは麻痺による痺れではなく怒りによるものと考えていいだろう。
「その人、何か言ってた?」
「君との関係とか訊かれた。まあ話すようなことは何もなかったけど」
「……そう、ならいいわ」
なにがいいのか分からないが詳しくは問うことはやめておく。いらないことをあれこれ詮索するのは趣味じゃない。
電車が減速を始め、慣性に従って僕の体が傾く。どうやら僕が降りる駅に近付いたようだった。僕は鞄を持つと席を立ち開閉ドアの前に立つ。
なぜか江本も僕の後についてきていた。
「あれ?君はここで降りるんだったか?」
前回電車が一緒だったとき、江本はここでは降りていなかった。
「今日はちょっと用事があるのよ」
電車が完全に停止し、ドアが開いた。いつもの如く駅のホームには人気がない。
「あそう……どこに行くんだ?」
僕の問いかけに江本は電車を降りながらさも当然の如く言い切った。
「もちろん君の家に行くのよ」
「……………は?」
僕のあらゆる生命活動が静止した。
親の死に際にあなたは私の子じゃないのよと言われるくらいのカウンター攻撃だ。僕が江本の言葉を理解するのに約五秒必要だった。
「降りないの?」
江本の問いかけと同時に車掌の笛の音が聞こえ僕は慌てて電車を降り、江本の後を追った。
「なんで僕の家に来るんだ!?」
江本がいつものように「冗談よ」というのを待つが、いつまで経っても江本は口にしない。っていうことは冗談じゃないのか?おい。
「私たちがまだ知らべていない他の猫殺しを調べるためにはネット環境が必要なのよ」
「それだったら別に君の家とかネットカフェでもいいじゃないか。なんで僕の家なんだ?」
「だって私の家より君の家の方が学校から近いんですもの。それにこれしきの事でネットを使うのにお金なんて払っていられますか。効率を考えればこその決断です」
江本はいたって平静だった。自分が間違った事をしているなどとはミトコンドリアほども思っていないのだろう。確かに江本の考えは一理ある。情報が正確かどうかは別として調べるのにネットほど役に立つものは無い。ただし本人に断りもなしに話を進めるというのは大いに問題だ。
ん?待てよ。猫殺しの犯人を捜すと決めたのは昨日今日の話ではない。
「というか君が家で調べてくればよかったんじゃないか?」
昨日にでも江本が自宅で調べてくれば良かったのだ。そうすればこんな変な話にはならない。
だが彼女は至極当然の事を言うように応えた。
「だってさっき学校で思いついたんですもの」
思い立ったが吉日という、なんとも素晴らしい行動力だ。だが彼女に振り回される身としては、もっと計画的に生きてもらいたい。
結局のところ江本の意見を拒否する事ができぬまま我が家についてしまった。
「……ただいま」
僕の声は心なしか不機嫌になっていた。
「あ、おかえり。お兄ちゃ……」
丁度愛海が顔を覗かした。そして固まる。
「こんにちは」
江本は優等生の会釈をして微笑んだ。出たな妖怪猫かぶりめ。
予想だにしないサプライズな江本の存在に愛海は固まり、動けなかった。後々が厄介そうだが、これはこれで面白いリアクションだ。
愛海の目がしきりに何か訴えていたが、僕はそれを無視し江本を自分の部屋へと案内した。
「今の妹さん?君に妹がいるとは思わなかったわ」
階段の途中で江本は僕に話しかけてきた。
「じゃあ何ならいると思ったんだ?」
「一人っ子っぽいと思っていただけよ」
一体どういう事からそんな風に思ったのか気になるが、僕も江本の家族構成を知らないことに気付き尋ねる事にした。
「君のほうはどうなんだ?兄弟はいるのか?」
「歳の離れた兄と姉がいるわ。でも二人とも家を出て今は一人っ子みたいなものだけど。あら意外と片付いてるじゃない」
江本はどうもこの状態を楽しんでいるようで、通された僕の部屋を面白そうに眺めた。
「意外とってどういう意味だ?」
「そのままの意味よ。男子の部屋にしてはって事」
「君は他の男子の部屋に入ったことがあるのか?」
意外に思い僕が尋ねると、意図も簡単に首を横に振った。
「あるわけないじゃない。想像よ、想像」
なんというか江本は時々言うことが凄く適当な気がする。彼女の言葉はあまり真に受けないほうがいいだろう。
「まあいいから座れよ」
僕の部屋には椅子が一つしかないので、一応客人という扱いの彼女を一つしかない椅子に座らせ、僕はベッドに腰掛けた。
それから僕は本題を思い出し、ベッドから立ち上がってパソコンを起動した。ファンの回転する低い音が聞こえてくる。
「結構良さそうなパソコンじゃない」
「オンラインゲームをしてるからそれなりにスペックが高くないと」
「そういえばそうだったわね」
それきり黙ってパソコンが起動するのを待っていた江本だったが、思い出したように鞄から一枚のCD‐ROMを取り出して僕に差し出した。
「そうそう、忘れてたわ」
ケースに入ったそれは表面に何もプリントされておらず、既成のアプリケーションソフトというよりは、自分で焼いたデータディスクのようだった。
「なにこれ?」
「あの写真よ。コンクールに入賞したっていう。写真部のデータをわざわざコピーしてきたのよ、感謝しなさい」
「いや、別に見たいなんて言ってないし」
興味無さそうに僕が言うと、江本は冷たい視線を僕に向けた。
「何か言いました?」
「いえ、どうもご苦労様です」
そう言って僕は丁重に江本からディスクを受け取り、起動したパソコンにセットした。
自動的に読み込み、ディスクの中が開かれる。写真部員の名前らしき人名詞がついたフォルダが無数にある。どうやら例の写真だけではなく、写真部のデータベースまるまるこのCD‐ROMに入っているようだ。
っていうか写真部って普通デジカメなのか?てっきりアナログにフィルムを自分たちで現像したりするもんだと思っていたのだが、違うようだ。あ、そういえば学校に暗室ないな。
「ほら、この写真よ」
江本はマウスを動かし一枚の画像をプレビューして見せた。
「これがコンクールの入賞作品ねぇ」
いまいち写真はわからないので滅多なコメントは言えない。
ただ言えるのは被写体としての江本はかなり映えていた。当人に言うと調子に乗るから絶対に言わないが彼女の容姿が並より上ということもあり、入賞したのがあながち江本が被写体だったからというのも冗談でもなさそうだった。
「なあ、なんでこんなにデータが入ってるんだ?まさか全部入れてきたとか?」
「しょうがないじゃない。どこにあの写真が入っているか分かんなかったんだから」
開いたついでに幾つかのフォルダを開いてみる。
フォルダには堤慶介とあるので、どうやらあの部長の写真が収められているようだった。コンクールに入賞した写真は彼が撮ったものなので彼のフォルダがあるのは当たり前と言えば当たり前だった。
「へえ、最近のもあるみたいだな」
ファイルの作成日時はごく最近の日付になっている。確かこの日はテスト前だったのに熱心な事だ。それにしても普通の住宅地でもコンクール入賞者が撮ると、それっぽく見えるから不思議だ。僕が撮っても観光写真にしかならないだろう。
「ふうん、君のはないのか?」
「あるけど……」
なんか口調がいつもより弱い。どうやら写真の腕は良くないらしい。
「一応拝見しておくかな」
江本茜と表示されたフォルダをダブルクリック。
「ちょっと一応って何よ、一応って。それなら見なくて結構よ」
そう言って江本は僕からマウスを引ったくり、開かれて間もないフォルダを閉じた。
ちょっと怒ったみたいだった。いつも怒っている気がしなくもないけど。
「じゃあちょっと調べていてくれ」
僕が部屋を出て行こうとすると少し意外そうに江本は僕を見た。
「あら、いいの?」
一体何のことかよく分からず僕は江本を見た。
「何が?」
「変なところを開いてHな画像とか見ちゃったりするかもしれないわよ」
江本は意地悪げな笑みを浮かべる。そういうことかと僕は苦笑した。
「お気遣い嬉しいが、そんなものないよ」
「なんだつまらない。君はもしかしてやおい好き?」
「……君が僕をどんな人間と思っているか大体分かったよ」
「冗談よ」
そう言って江本はマウスを動かしネットに接続した。彼女の冗談は冗談に聞こえないので怖い。江本が真面目に作業を開始するのを確認してから僕は階下へ降りた。
一階では好奇心に餓えた獣が僕を待ち伏せしていた。そんなことだろうとは思ったけど。
「恋人?恋人なわけ?」
愛海の目は好奇心で一杯だった。
「期待やら好奇心やらいろいろな思いが渦巻いているようだが、思っているような人間ではない、とだけ言っておこう」
「またまた照れちゃって」
「……」
何を言っても無駄なようだ。愛海の想像が暴走している。よって僕は愛海を無視し、ティーカップと簡単な茶菓子を用意し、インスタントコーヒーの粉末を取りかけたが警察署での出来事を思い出して僕は銀色の缶を代わりに取った。中にはアールグレイの茶葉が入っている。
ティーポットにアールグレイ紅茶の茶葉を入れ、お湯を注ぎ二、三分蒸らしてからティーカップに注ぐと、香りと共に渋みのある赤色の液体がカップを満たした。
「コーヒーじゃないんだ」
「あいつはコーヒーが嫌いらしい」
「なになに?好みを知り合う仲なわけ?」
「友達でもそれ位は知ってるだろうが。取り立てて大騒ぎする事じゃないだろ」
僕の冷ややかな反応に愛海も諦めたようにため息をついた。
「なんだぁ、本当に彼女じゃないんだ。まあお兄ちゃんにあんな美人の彼女がいたら引くけどね」
「……なんか言ったか?愛海」
確かに僕は根暗のヘタレだろうが、実の妹にまで言われたくはない。お前も僕と同じ成分の遺伝子で出来てるんだぞと言いたい。
「でも珍しいよね、お兄ちゃんが友達を家に連れてくるの。小学校以来なんじゃない?」
「そうかもな」
僕も記憶を遡ってその事に気付く。自分でも驚きだ。
入れた紅茶を持って自分の部屋に戻るとパソコンの前に江本はいなかった。僕の部屋は広くない。見渡すまでもなく彼女がベッドの上に脚をベッドの外へ垂らすように仰向けに寝転んでいるのが見えた。
僕が部屋に入ってきても彼女は身動き一つせず、少しだけ僕は戸惑った。まさか死んでるのか?というのは嘘だが、僕の部屋で勝手に寝るな。
「……どうした?」
「眠いのよ」
そう言って江本は欠伸をし、上体を起こした。僕が紅茶を入れに行っていたのは短時間のはずなのに、少し寝ていたみたいだ。
「そういやさっきも言ってたな。寝不足か?」
「ええ、まあね。ちょっと昨日は勉強していて寝るのが遅くなったのよ」
江本は眼鏡を外して、目を擦った。本当に寝むそうだ。
「流石は優等生だな」
「なにそれ、嫌味?」
「本心だよ。ところで何か見つかったのか?」
「全然よ、かすりもしない」
不機嫌そうに僕を睨む彼女にティーカップを差し出し、僕はモニターを覗いた。
「あちこちの検索エンジンでいろんなパターンの単語で検索してみたけど、この町に限定すると関連があると思われる内容はゼロ。検索範囲を広げると今度はヒットする項目が多すぎて絞り込めないわ」
僕から受け取った紅茶に口をつけ、江本はため息をついた。どうやら短時間ではあるものの彼女の仕事はきちんと果たしたようだった。しかし成果はあまりない。
「駄目か、他の方法を探すしかないか。あ、ミルクいれる派?」
「いいわ、私はアールグレイのこの色が好きなの」
江本は両手でカップを持ち、何かを考えるように宙を見ていた。江本の眼鏡が紅茶の湯気で曇っている。どうやらそれも楽しんでいるようだ。
僕はパソコンに向き直り試しにいろんな単語で猫殺しの件を検索をかけてみるが、それっぽい情報を見つけることは出来なかった。僕は諦めてカップを手に取った。丁度良い熱さになっている。
「どうする?」
僕は江本を見た。江本は目だけで僕を見ると少しだけ考えた後、口を開いた。
「図書館に行きましょう」
僕は時計を見た。閉館時間は迫っている。残り二時間半くらいといったところ。図書館までの移動時間も含めて考えると調べ物をするのには少し足りない気がする。
「……本気で言ってる?」
「私はいつでも本気です」
江本の口調に冗談嘘偽りの類は全く含有されていない。僕はため息をついた。
結局僕らは図書館に出向き、猫殺しの記事を探すことになった。僕の家からは近いとは言え、閉館時間が迫っている。仕方がないので自転車を出す事にした。
僕が自転車を漕ぎ、江本が後ろの荷台に腰掛ける形で座った。
「一つ忠告しておくが、はたから見れば――」
「変な誤解を招くでしょうね」
自転車を漕ぐ僕の後ろに乗る江本が答えた。江本は徒歩で通学しており、下校途中に僕の家に寄ったので当然ながら自転車のような気の利いた物はない。それに我が家にも自転車は一台しかなく、当然の帰結として二人乗りする羽目になっていた。
二人乗りというのは動きが安定しないので非常に乗りにくい上に、ペダルが重い。ママチャリに変速機など付いてるはずもなく、僕には久しぶりの重労働だった。
「えーと、君が気付いていないといけないので言っておくが、これは違法だぞ」
「承知の上です。今は急を要します」
ルールは破るためにあるらしい。ルールを守ると言う江本の基準は結構テキトウみたいだ。
「……今何時だ?」
「午後三時四十八分」
閉館は六時だが、調べ物をするのに二時間で足りるかどうか怪しいものだ。仕方なく僕は急ぐ事にした。
どうにか途中でギブアップせずに図書館に着いたものの、疲労により地面に座り込んだ僕に江本は呆れたように言った。
「だらしないわね、この程度で」
「仕方ないだろ、僕は文化系なんだ」
息が続かずに途中で言葉が途切れる。自分で言うのもなんだが情けない。
「全く……いつまでも座ってないで行くわよ」
江本は容赦がない。僕は彼女に労わりなど最初から求めていないが、もう少し休ませて欲しかった。だが江本は遠慮なく僕の腕を引いて立ち上がらせる。自転車の漕ぎすぎで足ががくがくだが僕は仕方なく彼女の後に従う。
江本は備え付けられたテーブルの一つを占拠し、新聞のバックナンバーを積み上げた。
言われるがままに新聞を目を皿のようにして調べていくが目的の記事は見つからずに時間は経過していった。
それでも新聞の山は着実に消費され、山が消えては江本が山を築くという自転車操業を三度繰り返した頃、僕は深いため息をついた。
はっきり言って気が進まない。
「なにため息ついてるのよ、もっと真面目にやりなさいよね」
江本は目ざとく僕が手を抜いているのを見咎め、口を尖らせた。
「しかしだね、調べなきゃいけない情報は取り上げられていても小さい扱いだろう。そしていつ起きたかも見当がつかないんじゃ、何ヶ月か遡って調べなきゃいけないんだぞ?悲観的になるなと言う方がおかしいだろう」
「少しの手間ぐらいかけなさいよ。簡単に犯人が見つかるわけないじゃない」
「そうも言うけどねぇ僕らはここで二時間かけて過去三ヵ月分の各新聞社の新聞記事をみたが、猫殺しの記事は一つも見つけれなかったんだぞ?これ以上探しても無駄というものじゃないか?」
彼女も少し諦めていたらしく僕の言葉を否定する事はなかった。それに閉館時間が迫っている。いくら江本でも公共施設に刃向かうような人間ではない。
「でもどうするっていうのよ。情報が無ければ捜査のしようがないでしょ」
「もっと他のアプローチをすればいいんじゃないか?例えば警察に聞くとか。ほらあの刑事なんかはどうだ?」
「警察に尋ねて答えてもらえると思うの?期待はできないわ」
確かに僕もはなから期待はしていない。あくまで可能性の話だ。
「あとは学校の友達とかに聞くとか。君の友達にそういう噂話とかに強い人はいないのか?噂でも当たりがつけば、現地で聞き込みをすれば真実かどうかぐらいわかるだろ」
「そうね……君もそっちを当たってみてちょうだい」
彼女が頷いたとき閉館の音楽が流れ始め、僕は安堵した。
日が傾いた道を僕らは並んで歩いた。それはただ話をするのにそれが一番楽という理由だけで、他意はなかった。
黙り込んで横を歩く江本を窺うと、顎に手を当て何かを考えている様子だった。よく見れば彼女の綺麗な黒髪が少し赤みを帯びているのが分かる。彼女の性格だから染めているわけではないだろうから単に色素が薄いだけかもしれない。もしかしたら夕焼けの所為で赤く見えるのかもしれない。
そんな事を僕が考えていると、江本がいきなり声を上げた。
「あ、猫」
江本が指差す先には本当に猫がいた。もちろん死んでいる猫ではなく生きている三毛猫だ。
江本は江本は猫を驚かさないようにゆっくりと近付いてしゃがみ込み、鳴き真似をして猫の気を引こうとするが、猫は関心を示さない。
僕は自転車を押しているので江本の後ろでその様子を眺めている事にした。
江本は諦めずに鳴き真似を続け、手を叩いたり架空の猫の名前を読んだりしている。
それが功を奏したのか猫は江本の傍に歩み寄り、そして彼女をスルーして僕の足元にすり寄って来た。
その様子を見ていた江本は少し腹立たしげに僕を見る。
「なにそれ?」
「見てのとおり猫は君ではなく僕を選んだようだ」
「わざわざ口で言わなくても分かってるわよ。私が言いたいのはなぜ呼んだ私のところではなく、ただ立っていた君のところに来るのかっていう事」
「……待て、僕のせいじゃないだろ。僕は何もしていない」
別に言い訳する必要もないのになぜか僕の言葉は言い訳がましくなる。
江本は多少不満そうだったが、僕の足元にいる猫を捕まえると撫で始めた。
あまり綺麗な猫とは言えないが江本の手の中でごろごろと喉を鳴らしている。
江本はどこか楽しそうだ。
「……ねえ、『猫ふんじゃった』っていう歌を知ってる?」
江本の言葉は唐突でかなり意表を付くものだった。本物の猫を前にその問いはかなり物騒な発言だ。
「……まあ、歌詞までは覚えてないが」
なぜそんな事を訊くのか分からなかったが、僕は答えた。「猫ふんじゃった」だけピアノで弾けるという人間は少なくない。ちなみに僕は音楽的センスは壊滅的なので弾けないが。
「じゃああの歌詞は日本だけのもので、外国では違う歌詞がついてるのは知ってる?」
「へえ、知らない」
初耳だった。だがなぜ今こんな話を江本がするのかが解せないが、何か真意があるだろうと感じ、僕は黙って聞くことにした。
「確かアメリカでは『チョップスティック』だったかしら。あの曲は作者が不明っていうのが一般論で、あの曲のイメージから詞が作られてるから題名が国によってまちまちになったみたいね」
「なんで『猫ふんじゃった』の話を?」
「私ね、昔この歌が嫌いだった。ほら、よく猫ふんじゃったに続けて猫死んじゃったって間違って歌うじゃない。それを真に受けて、なんて残酷な歌なんだろうって嫌いだったのよ。でも実際の歌詞にそんなところはないけどね」
彼女は一呼吸おき、僕を見た。その表情から彼女が真面目に話していることが分かる。
「前に君はなんで犯人を捜すのかって訊いたわよね。あの時は好奇心からって言ったけど、半分は違うわ。私は猫が好きよ。だから私は猫を遊びで殺した犯人が許せない」
彼女の瞳はいつも真っ直ぐに何かを見つめている。彼女はいつだって本気で生きていて、彼女は本気で殺された野良猫を可哀相と思い、本気で犯人を許せないのだ。
以前の僕なら生命は他の生命の死の上に成り立っているのだから、野良猫にそんなに感傷的になる必要なんて無いと、彼女に言ったかもしれないが今の僕はそんなこと言えなかった。
いつも手を抜いている僕にどうこう言える資格なんてなかった。だから僕は彼女に何も言わなかった。
正直言って僕は怖いんだ。本気になって失敗する事が。だから僕は戦う事から逃げ続けている。逃げていれば負けることはないから。
僕は負けることはない。でも勝つこともない。その事実に僕の心の底ではどこかすっきりしないもやもやとした気持ちがあった。
*
今日は特に841に呼び出されているわけではないが、GvGも近いこともあり自首練習をすることに決めソリッドフェンサーに接続した。
ゴールデンタイムよりも時間がまだ早いためにフィールドを歩き回るPCの姿は疎らだ。
僕は通い慣れてすっかり覚えてしまったフィールドの上を無意識のうちにPCを移動させる。
僕がいつも狩り場にしているダンジョンのすぐ手前の曲がり角に達した刹那、光の明滅と派手な効果音が鳴り響き、僕は突如ダメージ受けた。
何が起こったのか理解できずにダメージにより僕のPCは転倒し、僕は自動的に側転受け身のコマンドを入力した。そしてすぐそばにPCがいる事に気づきPKかと思った僕は距離をとって身構えた。
しかしながら僕の前に姿を現したPCは最初の一撃以外は動きらしい動きを見せずにいる。
僕も相手の出方を窺って動かずにいると目の前のPCがメッセージを表示した。
〈MAD: 私と勝負しろ〉
PKとはどうやら様子が違った。強盗目的のPKなら効率を考えて集団で襲ってくるはずだが、相手は一人だ。それに襲う前に挑戦してくる奴はいない。
つまりただのPvP好きの礼儀知らずなプレイヤーだということだ。
そこで一つの考えに思い至る。このPCが先日グレイマンのメンバーとPvPをしたという奴ではないのだろうか。つまり滅茶苦茶強いってことだ。
〈*: 遠慮しておく。他をあたってくれ〉
勝ち目がない戦いをわざわざする必要はない。
僕は横を通っていこうとしたが銀髪のPCは前に立ちふさがった。
〈MAD: ならばこちらから行くぞ〉
目の前のPCはメッセージを表示するなり攻撃を仕掛けてきた。
おいこら日本語読めねぇのかよ!戦いたくないって言ってるだろ!
〈*: ちょっ〉
抗議のメッセージを入力する前に銀髪のPCが攻撃を仕掛けてきた。人間の手は二本しかないため文字の入力と移動は同時には行えない。それ以前にシステム上同時に行うのは不可能だ。
PvPに慣れていない僕は遅れを取った。だが幾らかダメージを受けつつも間合いを広げて敵を窺う。
相手はやる気満々のようで、僕の動きに注意を払っている。
はっきり言って余計なことはせずに逃げたい。だがそうも言ってはいられないみたいで数秒の静寂の後、目の前の銀髪のPCが弾かれたように動いた。
僕は銀髪の剣士の攻撃を相殺。僕のPCのほうが攻撃展開が早いので難しいことはない。そもそも相手も剣である以上リーチはほぼ同じなので、双剣である僕の方に利がある。
相手の攻撃に対応して動く「待ち」は好きではないがこのまま「待ち」を続ければなんとかなるだろう。
このまま「待ち」をして頃合を見計らって逃げようかと思ったとき、突如銀髪のPCは僕との間合いを広げた。一瞬戦っても無駄と考え諦めたのかと思ったがとんだ間違いだった。
銀髪のPCは遠距離から剣を振り上げる。当然の事ながら剣による攻撃が届くような距離ではない。だが次の瞬間には僕のPCの眼前までその切っ先は迫っていた。それが何を意味するのか気づいたときにはもう遅い。
―――特殊武器!?
ソリッドフェンサーには通常武器の他に現実ではありえないような特殊能力を秘めた特殊武器も存在する。例えば目の前のPCが持つ伸縮自在の剣のような。
アースが「蛇のような」と言っていたのを今更ながら思い出す。
鞭のようにしなり、一瞬にして攻撃範囲を広げた攻撃を回避する暇は無かった。そう判断しなんとかガードしてやり過ごそうとするが、攻撃による衝撃で僕は後方へ飛ばされる。並みのプレイヤーではない攻撃力だ。
更に不運だったのは背後に木が立ち並んでいた事。受身をとる前にそれにぶつかりダメージが跳ね上がる。
フィールドが僕に不利に働いた。
僕は転倒し、蓄積したダメージのせいですぐに起き上がることが出来ない。気絶状態、いわゆるピヨってしまった。
回避行動のとれない僕に第二陣の攻撃が迫る。
やられる、と感じた次の瞬間僕と銀髪のPCの間にひとつの陰が入り込み、蛇のようにうねる剣を弾き飛ばした。そして銀髪のPCに一気に近づき、牽制の一撃を加えると銀髪のPCは後ろへ退き動きを止めた。
間に割って入った人陰を見て僕は安堵した。筋肉の鎧をまとった大柄なPC、EDだった。
動きを止めた銀髪のPCを警戒しつつ、EDは追撃する事はせずに様子を窺った。
〈MAD: 他愛無い〉
銀髪の剣士は僕を見下ろすとメッセージを表示した。
〈ED: お前、どういうつもりだ〉
どうやらEDは僕がPKに襲われていると思って助太刀してきたようだが、相手が普通のプレイヤーであることに気付き、いささか緊張の糸をほどいたようだった。
〈ED: 一般プレイヤー相手に一方的戦闘を仕掛けることはPKに相当することは理解しているだろう。それを承知の上での行為か?〉
銀髪のPCは興味をなくしたように戦闘状態を解き、メッセージを表示した。
〈MAD: ほんの挨拶代わりだ。そんなに体力は削っていない〉
あれが挨拶代わりなら、普段の挨拶はどうやってるんだ?礼儀知らずもほどがある。
〈MAD: GvGを楽しみにしている〉
MADはそれだけ言うとさっさと立ち去った。
〈ED: 何だあいつ、まるでお前を標的にして襲ったみたいに〉
それは僕も感じたことだった。
〈ED: 大丈夫か?〉
〈*: 仮想世界ですからね。大丈夫じゃないっていう事は無いと思いますけど〉
僕は装備アイテムの中からリヴァイヴァーを選択すると僕のPCはリヴァイヴァーを飲むモーションを行い、MADに削られた分の体力を元の値に戻す。半分ぐらいまでに体力ゲージは減らされており、リヴァイヴァーを二個も使わなくてはいけなかった。
〈ED: まあそうだな。しかしあの蛇みたいな剣に銀髪のPCってアシュレイ達を襲ったのと同じ奴じゃないか?〉
〈*: たぶん、そうですね〉
僕は少しだけ戸惑っていた。なぜアシュレイやアースを襲ったプレイヤーが僕を襲うのだ?僕はそんなに目立ったプレイヤーじゃないし、強くもない。強いて言えばグレイマン不同盟に加わり、GvGに出るというぐらいだ。
〈ED: やっぱあいつグレイマンの奴を狙ってやがるな〉
〈*: みたいですね。それもGvGに出るプレイヤーばかり〉
〈ED: ちょっと調べてみたほうが良さそうだな。ああ、アス。このことは841以外には誰にも言うな。事が大きくなったら厄介だからな〉
確かにEDの言うとおり厄介な事が起こっているのは明らかだ。
漠然とした嫌な予感を感じながらも、僕は已然他人事のように感じていた。